シューマッハの風に吹かれて(Blowin' in the Wind of Schumacher)

日本でも少しずつ認知度が高まってきたSchumacher College(シューマッハ・カレッジ)大学院。しかし、まだ日本人の参加者も少なく、日本語での情報も少ない為、その実態が掴み辛いのが現状です。 そこで、少しでもシューマッハ・カレッジ情報を国内で広め、多くの方に興味を持ってもらいたいと思って始めたブログです。

僕はこうして英語アレルギーを育んだ④ ~少年時代その3~

さて、前回からの続きでキャンプの話をもう少ししたいと思います。

 

もう限界かも

 

一事が万事すべて分からない為、暗中模索の中での日常生活だった為、全く気は休まらなかった。最初の頃は、食事の時間や場所も分からない、どんなイベントがあって何時にどこでやるのかも分からない、やっと部屋に戻っても英語を使わなければならない。何日か経った頃、私の中で何かのリミッターが振り切れた。

 

いてもたってもいられず、公衆電話にコインを投入し自宅へ電話した。懐かしい母の声を聴いたら、涙が溢れ出てしまいなかなか声にならなかった。それでも、あまりにも辛いのでキャンプから帰りたい、と伝えた。心のどこかで受け入れてくれるのではないかと期待した。しかし、答えは「ノー」だった。更には、「頑張りなさい。そして、もう電話はかけてくるな。」とも。至極優しい口調ではあったが、自分に選択の余地がないことは幼い私にも十分に伝わってきた。こうして最後のカードを切ってしまい、手詰まりを起こした私は、不本意ながらも最後までキャンプを完遂することを静かに誓った。

 

もっといたい!

 

背水の陣に追い込まれた私は開き直った。どうせもう後戻りできないのであれば、とことんやるしかない。ちょうどキャンプにも慣れてきて、日々の生活に困らなくなったことも、開き直ることを後押しした。ルームメイトとも積極的に話すようになると、最初に自分が考えていたよりもずっと話し易くて、私のつたない英語でも一生懸命会話をしてくれた。そうすると加速度的に仲良くなっていき、日々の生活が楽しく感じられるようになった。暗く白黒に見えていた世界が、徐々に色付き始めるような感覚だった。

 

それまではキャンプの残り日数を指折り数えていたのだが、不思議なもので、あっという間に終盤を迎えていた。そして、最後の大イベントで、参加者全員で遊園地に行く、というものがあった。私は、最近急速に仲が良くなったルームメイトと一緒に回ることにした。遊園地には様々な乗り物やゲーム等があり、少年にとっては夢のような場所だった。私は遊園地で喜びを爆発させた。こんなに楽しい遊園地は、後にも先にもこの時だけだったと思う。ルームメイトもテンションが上がり、「これすげー!「あれ乗ろうぜ!」「もう一回!」みたいな感じで完全に打ち解けあった。少年が喜ぶものに国籍は関係ないのだ。

 

夢のような時間を遊園地で過ごした後、私とルームメイトは更に仲良くなっていた。そして、キャンプがあと少しで終わってしまうことに心底落胆していた。そんな感情を抱いている自分に気付き、本当に驚いた。「もっとここにいたい!」と思っていたのだ。むしろ、「これからなのに」とさえ思っていた。ついこの間まで、帰りたくて仕方がなくて、指折り残りの日数を数えていたのに、だ。

 

そうこうしているうちに、最終日を迎え母親が迎えに来た。私は誇らしい気持ちになっていた。何よりもこの辛いキャンプ生活を乗り切ったという自信と、仲の良い友達が出来て英語力も向上したという自負があった。しかし、「もっとここにいたい」という気持ちを持っていた私も母の顔を見ると、「やっぱり家に帰りたい」と心変わりをしていた。やはり、少年は甘えん坊という一般論に偽りはないことを確信した。

 

最終的にはハッピーエンドのように終わっているが、このキャンプの経験は、私の英語アレルギーに多大なる影響を与えている、と今振り返っても思う。とにかく、英語が分からないことが原因で、孤独や不安、恥ずかしさを経験することに異常に敏感になってしまったのである。つまり、「英語を間違えることが怖い」という感情が根強く植え付けられた。

 

こうして私は着々と、英語アレルギーを育んでいった。