シューマッハの風に吹かれて(Blowin' in the Wind of Schumacher)

日本でも少しずつ認知度が高まってきたSchumacher College(シューマッハ・カレッジ)大学院。しかし、まだ日本人の参加者も少なく、日本語での情報も少ない為、その実態が掴み辛いのが現状です。 そこで、少しでもシューマッハ・カレッジ情報を国内で広め、多くの方に興味を持ってもらいたいと思って始めたブログです。

僕はこうして英語アレルギーを育んだ⑤ ~少年時代その4~

 

アメリカの頃の少年時代シリーズは今回を最後にしたいと思います。本当はもっと色んなネタを書きたいところですが、あまりこの時期にフォーカスし過ぎても、なかなか先に進まないので(笑)。

 

悲しさと嬉しさと不甲斐なさと

 

さて、色んな苦労をしながらも日々が過ぎ、何とか約2年間の月日が経った。ちょうど新学年になった頃、履修する授業に変更があった。これまでは、ESL(English as a Second Languageの略)という英語を母語としない生徒の為の英語を学ぶ授業があったが、今後はアメリカ人と完全に同じ授業を受けるというのだ。レギュラークラスと呼ばれていたその授業は、国語や社会といった英語が分からないと話にならないようなクラスが対象となる。つまりこの授業変更は、英語ができるようになったということを学校がお墨付きを与えてくれたようなものである。会社で言うならば「昇進」で、将棋で言うならば「成り」みたいなものだ。

 

ESLクラスの生徒は、なるべく早くレギュラークラスに異動して、アメリカ人と同じ授業を受けたい、という気持ちを持っている人が多い。そうすれば、飛躍的に英語力が伸びるからだ。そして、ついに私にもその時がやってきたのだ。2年間苦汁を舐めながら、地べたを這いずり回りながら、色んな苦しい経験を糧に、少しずつ英語力を上げてきた。そして、ついにその苦労が実を結ぶときがきたのだ!何かに表彰されたような誇らしい気持ちだった。しかし、やはり現実は厳しく、そんな気持ちは一瞬にして消え失せた。

 

私は完全に勘違いしていた。レギュラークラスに上がれるということは、「レギュラークラスでやっていけるだけの英語力が備わっている」ことだと思っていたが、現実は「レギュラークラスでやっていけるだけの英語力に『なれる素養』が備わっている」だったのだ。当たり前だが、この「既に備わっている」状態と「素養がある」状態には大きな差だ。そして、そんな差があるなんて誰も教えてくれるわけもないので、すぐに骨身に染みる体験をすることになった。

 

レギュラークラスに上がったぐらいでは、英語力が圧倒的に不足している。授業は何を言っているのかよく分からない。私が英語を出来ないと知らずに普通に話しかけてくる生徒もいる。しかし、私がうまく返答できないでいると、不思議な顔をしたり、がっかりした表情をする。悪気のない少年少女の反応だからこそ、余計に申し訳ない気持ちになる。そんな日々を過ごしていたある日、グループを組んでディスカッションすることになった。既に私の英語力のなさがクラスにも知れ渡っていた為、私と積極的に組もうとする人はいなかった。それでもどこかのグループに何とか参加させてもらった。私がグループに大した貢献もできない味噌っかすであることは自明の理である。それでも、温かく迎えてくれる生徒もいた。

 

実際にディスカッションが始まると当然私は付いていけない。それでも親切な生徒は、私が蚊帳の外にいることを気遣ってか、話題を振ってくれた。しかし、うまく応えられない。そのうち別の生徒が、「こんな奴に聞いたって無駄だよ!」と言い始めた。それぐらい私にだって分かる。それに言葉と関係なく、侮辱されている雰囲気を人間は不思議と察知できるものである。とても悲しい気持ちになった。「まただ」と思った。でもそんなことはこの国に来てから何度も経験しているので我慢は慣れたものだ。しかし、別の生徒が私をかばってくれたのである。この事態を予想していなかった私は不意を突かれた。

 

単純に嬉しかったのだ。そして、同時にそんな親切心に応えられない自分をとても不甲斐なく感じた。気付いたら目から涙が溢れ出していた。あまりにも突然のことで、自分でも何が起きているのか分からず必死に隠そうとしたが、そんな気持ちとは裏腹に、止め処なく涙が流れてきた。すぐに別の生徒が気付き、先生も異変に気が付いた。恥ずかしくて穴があれば入りたかった。あまりの恥ずかしさに混乱し、その後どのようなやり取りをしたのかは覚えていないが、とにかく思いっきり涙を流してすっきりした気持ちになったことだけは覚えている。

 

なぜこのタイミングで・・・

 

そんな経験もしながら、レギュラークラスに食らい付いて2カ月が経った。少しずつだが、英語力も上がってきた。このまま後一年ぐらい頑張れば、飛躍的に伸びるだろう。そうすれば、これまでのような苦労はせずに英語で生活ができる。そんな予感もしていたし、先人達も皆同じ道を通ってきたと言っている。そんな矢先に、両親から告げられた。「日本へ帰国することになった」、と。

 

この2年間は基礎固めのときだと思っていた。スポーツで言うならば、走り込みをして基礎体力を付けて、シュートやフォーメーションの基本技術を身に付け、やっと練習試合に出られるようになった。そこまでは来た。後は、何回か練習試合で実戦経験を積めば、いよいよ公式戦デビューの見通しまで立った。そんな頃に故障して、練習すらもできなくなってしまった。そんな気分だった。

 

一番辛くて、一番地味で、一番地道な基礎固めの経験を我慢できるのも、公式戦で活躍する姿を夢見るからこそである。すぐそこまで見えたそんな公式戦の夢が、手からすり抜けて行った。大きな失望感を感じた。帰りたくない、と両親に交渉はしてみたものの、そんな子供の要求は、会社の転勤という大人の事情の前では、あまりにも無力なものである。帰国する方針が揺らぐことはなかった。こうして私は、後一年間いれば花開いたであろう英語力をアメリカに置いて日本に帰国した。

 

この経験を私は、「いいとこ取り」ならぬ、「悪いとこ取り」と呼んでいる。その先に待つ楽しい部分だけ残して、苦しい部分だけを経験してきたからだ。結局、約2年2か月アメリカにいたことになるが、その間いつも気を張って、常にファイティングポーズをとり続けて、闘い続けてきたと思う。号泣する自分の嗚咽する声で朝目覚めたこともあった。枕があまりにも涙で濡れていて驚いたのを覚えている。それだけ追いつめられていたのだろう。しかし、結局、圧倒的な敗北感を携えて日本に帰国することとなった。

 

私の英語の原点は全てこのアメリカ時代にあり、人格形成期の少年時代の経験だったが故に、英語アレルギーは深く、そして広く浸透していってしまった。このことは、当時の私はまだ知る由もなかったが、年齢を重ねるに連れて、そのことを実感していった。

 

 

次回からは日本に帰国後の中学校時代以降を書いていこうと思います!!