シューマッハの風に吹かれて(Blowin' in the Wind of Schumacher)

日本でも少しずつ認知度が高まってきたSchumacher College(シューマッハ・カレッジ)大学院。しかし、まだ日本人の参加者も少なく、日本語での情報も少ない為、その実態が掴み辛いのが現状です。 そこで、少しでもシューマッハ・カレッジ情報を国内で広め、多くの方に興味を持ってもらいたいと思って始めたブログです。

僕はこうして英語アレルギーを育んだ② ~少年時代その1~

前回から日にちが空いてしまい、すいませんでした。体調を崩し、熱でダウンしてました。皆さんも体調にはくれぐれもお気を付けください。

 

さぁ、いよいよ今回から英語アレルギーの旅(?)の始まりです。色々と書くことを考えていたら、「意外にこのシリーズ回数が多くなるかも」とか懸念してみたり。一体、何回までいくのか私自身も楽しみながら書いていきたいと思いまーす。

 

アメリカ転勤は突然に

小学校4年生の夏か秋頃、ある日突然両親から「10月からアメリカに引っ越すことになった。数年間は日本には戻ってこないだろう。」という宣告を受けた。
まだ少年真っ盛りの私の感想は、「な、なんだとっ?それでは10月の運動会出場は一体どうなるというのだっ?リレーには出られないだと?ふ、ふざけるなー!(全てベジータ風)」だった。そうです、小学校の男子にとってリレー選手に選ばれることはこの上ない誇りであり、運動会の晴れ舞台に向けて調整をするのが通例である。ましてや、1年生からずっとリレー選手に選ばれていた私にとって、欠場することは屈辱だったからだ。(ちなみに足の速さはこの頃がピークだった。思春期に足の速さ方面での成長に失敗した私の体は、中学校以降にその栄光を取り戻すことは一度もできなかった。。。)
そして、慌ただしく引越しの準備をして、あっという間に渡米の日を迎えた。

 

ここまでの話をすると、「なーんだ、結局帰国子女の奴の話かよ。英語できて当然なんだから英語アレルギーとか関係ねーじゃん。」という声が聞こえてきそうだ。しかし、ちょっと待って欲しい。いや、ちょっ、まてよ!事はそんなに簡単ではないのだ。むしろ、こういう捉えられ方が一般的だからこそ複雑なのである。ここにこそ私がこのシリーズを書いている一つの理由がある。世間で帰国子女と言ったときに思い浮かべるイメージと必ずしも一致しない悩める子羊のケースがあるということを。

 

ちなみに、渡米を言い渡された当時の私は英語については全く心配していなかった。なぜなら、当時の私にとっての英語とは、外国人が話す「ワターシノ、ナマエハー、マイク・デイビスデス!ヨロシクオネゲーシマース!」のような訛った日本語だと思っていたからだ。それならすぐに話せるからアメリカでも問題ないだろう、と。今思えば笑い話だが、当時は大マジだった。嘘のような本当の話。事実は小説よりも奇なり、である。

 

そんなんなので、渡米時点での私の英語力は、アルファベットは全部言えないし書けないレベルだった。L以降は全滅状態。今の小学校だったらあり得ないレベルだし、当時でも子供に最低限の英語教育をさせた上で渡米する人が多かったのだが、私は特にそんな準備もなく渡米してしまった。言うならば、丸腰で戦場に赴くようなもの。今思えば、本当に恐ろしい。

 

編入初日の洗礼

そんな状態でも日本人のみが通ういわゆる日本人学校であれば、問題なく過ごすことはできただろう。しかし、私の場合はそんなことはなかった。まさかの現地校への編入である。どうやって時間割を理解しろと?どうやってトイレの場所を聞けと?どうやって人と話せと?

 

編入初日すぐに学校アルバム用の写真を撮る時間があった。名前の入力欄があったのだが、もちろんアルファベットを書けない私は、自分の名前をそこに刻み込むことはできない。無力だ。あまりにも無力だ。小学校4年生にもなって自分の名前を書けない人がいるだろうか、いやいないだろう。周りの人が心配そうに親切そうに何か色々と言ってくる。

 

「●▽※※&!\\」

 

私にとっては全く理解不能な言葉、むしろ言語とも認識できずただの音としか聞こえなかった。やばい。非常にやばい。何とかこの状況から脱出しなければ。そんなとき、脳裏に妙案が思いついた、「そうだ。母親が持たせてくれた筆箱の裏に名前が書いてあるじゃないか。あれを持ってきて、そのままここに写せばいいじゃないか!」。居ても立っても居られなくなり、写場から教室にダッシュした。「あの教室だ!あそこに俺の名前がある!」と、まるで宝物を探し当てたかのように息を切らしながら走った。だが、現実は厳しかった。ドアが施錠されていたのである。再び、絶望のどん底に舞い戻ってきた。

 

突然ダッシュを決め込んだ私を心配して、追いかけてきた人達に捕まる。まるで人間に捕獲される宇宙人にでもなったような気分だ。また色々話かけてくる。状況から察するに「いきなりどうしたんだ?写真取りに戻りにいこうよ。」といったことを言っているだろう。何とかこの教室の中に私の名前があることを伝えようとするが、1ミリも伝わらず、また写場に連行された。

 

結局、名前は私が口頭でゆっくりと発音し、その音から想定されるスペルを類推して別の人が書いてくれた。このやり取りも奇妙だった。一人の少年が1音ずつ自分の名前を発音する横で、2~3人があーでもないこーでもないと言いながら名前記入欄に名前を記入しているのである。今思えば、シュールな図だ。あまりの情けなさと屈辱感から、この後のことは一切覚えていないのは言うまでもない。

 

こうやって私のアメリカ現地校デビューが幕を下ろした。そして、静かに英語アレルギーの種がそっと植えられたのである。

 

※注
誤解のないように予めお断りしておくが、現地校の方は皆さんとても親切だったし、とても感謝している。私が必要以上に恐怖心を抱いていた為、このように見えているだけだということをどうかご理解頂きたい。